「私は……」
そこまで言葉にしたところで、口籠もってしまう。
私はいったいなんなんだろう? フォーニという名の、音の妖精? それとも、アリ
エッタ=フィーネ?
まっすぐに私を見つめる視線から、目を逸らす。同時に、背後でドアの閉まる音がし
た。クリスが帰って来たのが、それだけでわかる。もう、二年以上もこの生活は続いて
いた。
猫さんのことを思い出して急いで振り返る。興味がなくなったのか、こちらに尾を向
け、どこかの塀に飛び移ろうとしている後ろ姿が見えた。その猫は、痩せすぎて、脇に
はうっすらと骨が浮き出ていた。
「またね」
声が聞こえたのだろうか、しなやかな跳躍の寸前に、耳が一度だけ、ピクっと動く。
「何か言った?」
すぐ後ろで、タオルを片手に、クリスが不思議そうにこちらを見ている。
「あ……ううん、なんでもない」
クリスはそれ以上は聞かずにベッドに腰を下ろした。軽く弾みをつけ、窓際の指定席
から飛び降りる。すう――と身体が浮くような感覚に包まれ、ふわりとクリスの膝の上
に着地した。
「手紙はちゃんと出した?」
クリスは、いつものように軽く微笑んでから、手にしたタオルを横に置いた。
「大丈夫だって。今まで一度だって、忘れたことないんだから」
「私との約束はよく忘れるのにね」
昨日、食後にもう一度アンサンブルをする約束をしたのに、クリスが寝てしまったこ
とに対する当てつけだ。
「だから、それはごめんって……朝も言ったじゃないか」
困ったように言い訳をするクリスに、つい笑ってしまう。
「じゃあ、今からアンサンブルしよ」
呆れたように私を見て、それからクリスは口を開きかけたが、それよりも先に、私は
否定の言葉を口にす。
「なんてね、嘘だよ。昨日だって、アンサンブルできなかったわけじゃないし。ちゃん
と来週まで待つから」
苦笑いを浮かべ、クリスは「ありがとう」と言い、夕食の準備をするためにベッドか
ら立ち上がる。
夕食を準備するクリスの背中を見つめ、この幸せな時間が、あとどれくらい残されて
いるのかと、何度も、何度も考えていた。時折、あの痩せた猫さんの顔が、頭に浮かん
では、消えた。
次の朝、着替えをすませて学院に向かおうとするクリスに、ひとつお願いをした。
「この窓、少しだけ開けておいて欲しいんだけど」
「どうして?」
「少しは空気を入れ換えないと、じめじめっとした部屋になっちゃうでしょ?」
「窓から雨が入ってくるほうが、大変そうだけど」
男の子にしてはほっそりとした眉をひそめ、クリスはじっと私を見つめる。
「だいじょうぶ、今日は雨も弱いから」
クリスは私と一緒に窓の外を見つめ、それから「そうだね」と言って、私の身長と同
じくらいの隙間を開けてくれた。
「落ちないようにね」
爽やかな風を羽に受け、私はゆっくりと浮き上がった。